鎌ヶ谷市民まつりでお馴染みになった「相馬馬追いの騎馬隊」
「相馬野馬追」騎馬武者姿は南相馬のみなさんによる着陣式の再現

13日(土) 恒例の鎌ヶ谷市民まつり開催さる
 恒例の「鎌ヶ谷市民まつり」が、今年も鎌ヶ谷市役所や新鎌ヶ谷駅南口一帯を会場にひらかれました。私は主に、平和行進実行委員会による「被爆者の核兵器禁止署名」のテントを足場にしながら参加者と交流していました。
 毎年恒例となった「相馬の野馬追」は今年も又、南相馬から招いて、古式ゆかしい着陣式の儀式も行われました。
   「相馬野馬追」は、伝説ではその始まりが「相馬氏の祖である平将門(たいらのまさかど)が下総国小金原(こがねはら)に野馬を放ち敵と見立ててこれを追ったことに始まる」とされています。鎌ケ谷市域は、国史跡に指定されている「下総小金中野牧跡(しもうさこがねなかのまきあと)」があるように、「小金原」と呼ばれていた地です。また、相馬藩主を務めた相馬氏のルーツは、鎌倉時代に鎌ケ谷市域の北部を含む「相馬御厨(そうまのみくりや)」と呼ばれる荘園を、下総守護千葉常胤(つねたね)の次男師常(もろつね)が相続して「相馬」を名乗ったことに始まります。その後に福島県の行方(なめかた)郡(現在の南相馬市)に本拠地を移し、野馬追行事もこのとき引き継がれたとされています。
 鎌ケ谷の地の支配は、南北朝時代頃には失われてしまいましたが、鎌ケ谷でも江戸時代には幕府の牧場が設けられ、放牧馬を捕獲・分別した「野馬捕(のまど)り」が行われるなど、「馬」を通じた歴史的な縁があります。福島県の相馬地方と鎌ケ谷の2つの地域が「鎌ケ谷市民まつり」で600年振りに再会しています。